鹿島台商店街の歴史

鹿島台商店街の歴史

History

わらじ村長こと鎌田三之助は、1909年(明治42年) 鹿島台村長に就任し、品井沼を中心とした沼の「干拓(かんたく)事業」尽力した人物です。わらじを履いて村内を巡回したため、村民から「わらじ村長」と呼ばれ親しまれました。その親しみや敬意の歴史は、現代でも“わらじ祭り”として地域の夏祭りという形で引き継がれております。

鎌田三之助が尽力した干拓事業についてですが、干拓とは、湖や沼の排水をして、陸地や耕地にしていくことです。自給自足が主流だった当時の人にとって、貴重な土地である「畑」や「田んぼ」を、彼は苦労しながらも品井沼の形を整えることで広げることに成功しました。

当時の品井沼は、“3年に一度しか米がとれない日本一貧乏な村”と言われておりました。昔の品井沼は、雨が降り続くと水があふれて周りの田畑は水浸しになるということが幾度となく起こっており、それにより作物獲れなくなってしまうことが何回もあったことが由来となっています。このような村の状況を変えるため排水工事を進めていたのが、鎌田三之助の父と祖父であり、その思いを引き継ぎ、沼の干拓工事を推し進めたのが鎌田三之助でした。

このような歴史により広がった水田は、その後の地域発展の基礎となっていき、現代の鹿島台に繋がっています。

当時の品井沼は、“3年に一度しか米がとれない日本一貧乏な村”と言われておりました。昔の品井沼は、雨が降り続くと水があふれて周りの田畑は水浸しになるということが幾度となく起こっており、それにより作物獲れなくなってしまうことが何回もあったことが由来となっています。このような村の状況を変えるため排水工事を進めていたのが、鎌田三之助の父と祖父であり、その思いを引き継ぎ、沼の干拓工事を推し進めたのが鎌田三之助でした。

このような歴史により広がった水田は、その後の地域発展の基礎となっていき、現代の鹿島台に繋がっています。

こうした歴史を持つ大崎市鹿島台地域。その中心にある鹿島台駅の東側に広がるのが鹿島台商店街です。多種多様なお店が並び、近くには住宅街から小中学校、更に鹿島台商業高校もあるため老若男女問わず多くの人が通るエリアとなっております。

更にこの商店街エリアは春と秋にはそれぞれ3日間ずつ「鹿島台互市」が実施されている地域でもあります。実はこの“鹿島台互市”にも長い歴史があると共に、前述した鎌田三之助が関係しているのです。明治43年(1910年)村長である鎌田三之助が、村民の生産した農産物、加工品を販売することにより、村民の福利を図ろうと始まったものが鹿島台互市であり、現在では東北最大級の規模を誇る伝統の市となっております。約600メートルの区間に、農産物や海産物、手工芸品や服飾製品など約150店の露店が並び、多いときは10万人以上の人通りがあります。

互市やわらじ祭りのような昔からの歴史を感じさせつつも、新しくなった鹿島台駅や鹿島台総合支所も立地しているという昔と今が織り交ざった街並みを是非お楽しみください。